日の出前までは星がよく見えて、大変綺麗な夜空でした。今朝流れてくる風、気温は27℃ありますが、ほんのり冷たく感じます。
むわっと熱気を感じ蒸し暑く感じる朝ではありません。素足に下駄、浴衣をまとい闊歩したい気分です。このようなちょっとした一日の変化を長崎港の景観を毎朝見ながら楽しめる東山手は、長崎のとてもすてきな場所の一つです。
ちなみに浴衣を湯上がりに着るようになったのは安土桃山時代(16世紀末)のころ。江戸時代になると、それが普段着へと広がっていきました。
海星八十五年史
手元に一冊の本がある。
分厚い表紙をめくると『海星』と、実にたくましく学園名が書かれている。
さらによく見ると、右上には昭和元(1926)年12月25日発行とある。
傷んではいるが、左下には『海星中学校校友会』の文字。旧制学校時代のものだ。
125周年記念誌が武川教頭先生を編集長に現在編纂中。その過程で必然的に海星の歴史を目の当たりにする機会が増えました。
上記校友会誌は、見てすぐわかる重厚な本。
おそるおそる1ページ目をめくると、「謹ミテ 大行天皇ノ 崩御ヲ悼ミ奉ル」と、書いてある。確かに昭和元年に発行されたものだとわかる。大正時代は、大正15年12月24日に終わり、昭和は12月25日から始まり昭和元年となった。
再びページをめくる。3ページ目には大きな写真。
「射撃大会優勝」の写真紹介文字。
巻頭一枚目に据えてあるという事で、この写真が、いや、この射撃大会優勝という事が当時いかに価値を持っていたかを推察できる。
明治時代から続く海星の歴史を感じずにはいられない本。写真にいるこの先輩方も、私たちと同様に今も同じ場所に位置するこの東山手の学び舎『海星』で青春時代学んだ確かな軌跡。
まもなく8月。
夏を迎えるに当たり平和教育に力を入れるこの長崎で、『海星八十五年史』または『海星百年史』を読み、海星ブログを通じて何かを伝えることができないかと記念誌資料に携わる機会が増え思うようになった。まだ全てを読み込んだわけではないが、終戦直後のある先生の文が印象に残った。
白川乕市先生
125年の中で海星に奉職した教職員は700名を軽く超える。
その中で、今回は昭和13(1938)年から昭和53(1978)年まで、海星で理科の教鞭をとられた白川乕市先生を紹介させていただきたい。
【戦中・戦後の卒業生たちと同窓会。野口校長の向かって左隣り白川先生】
白川先生に教授いただいた経験を持つ、22回生である清水校長(地歴公民科)、21回生・和田先生(国語科)、23回生・横川先生(国語科)に話を聞いた。
「とにかく授業が面白く、当時生徒に大変人気がありました。煙草をよく吸っていらしゃった先生でした。古き昭和の海星を代表する先生のお一人でした。」
清水校長をはじめとする3名の先生方は、それぞれ昭和44・45・46年の海星卒業生。
先生方の記憶をたどり話を聞くと、化学の名物教師と称された白川先生の姿が少しだけ見えてきた。96歳で故郷徳島で天寿を全うされた先生を、『海星・百年史』掲載・川口昭一先生(理科:昭和27年ー平成5年)の文と共に紹介します。
オッさん
「ほんの2,3年のつもりが40年たってしもうたんぢゃ」と、事も無げに云われる。先生の面目躍如たるとことである。
昭和12年まで旧制浦和中学で活躍しておられた白川先生。翌13年、しばらくのつもりで海星へ身ひとつで来られた。
徳島出身の先生は、今で言う単身赴任、それが40年になって終わったというわけである。84歳で退職されるまで、海星での一種独特の味のある人間味で、往年の卒業生に「オッさん」という愛称で親しまれ活躍された。(途中割愛・川口先生による白川先生紹介文【弔辞】よりー『海星百年史』)
1945年9月の白川先生
1945(昭和20)年8月15日、終戦。長崎は8月9日に原爆による甚大な被害を被った。あの日の様子も海星百年史には記述されているが、その生々しい様子は別の機会に紹介したい。
1945年9月。まさに終戦直後、『海星八十五年史』『海星百年史』には、その月の様子がこう記されている。
ー白川先生は原爆後、十日ほど経って郷里の徳島県・三加茂町へ帰郷したのであったが、9月になって、新学期には間に合うように戻ってくる予定だった。ところが、9月上旬に山陽線が不通となり、いつ回復するか見当もつかぬということだった。
困った挙句、やむ得ないから、宇高連絡船で岡山へ出、それから京都へ行けるというのでその列車に乗り込み、京都から山陰線を回ってやっと長崎 ーといっても道ノ尾駅 ーにたどり着いたのが9月中旬のこと。(※注 戦後、この道ノ尾駅は度々『海星百年史』に出てくる。終戦直後は、佐世保・早岐駅同様に長崎の生命線の駅だった様子がうかがえる。)
下宿は消失していたので、どうしようもなく、近くの立山町に英語科の江副先生の家があるのを思い出し、訪ねていくと、先生は引っ越して、どこへ行ったか近所の人たちは知らぬという。近くの筑後町に、かつて家庭教師をしていた生徒の家があったので、そこへ行くと、家族みんなで温かく迎えてくれ、やっと寝場所ができた。
けれども食糧難の時代だから、生徒の家に迷惑かけて長居することもならず、食糧さえあれば、何とかなるだろうと校長にたのみこみ、米一升と小麦少々、それに調味料や野菜など分けてもらって、それを背負い、かねて最も親しくしている伊藤先生の家へのり込んだ。すると伊藤先生はにこにこ顔で、「実は、家には米五合しかなく、あしたはどうしようかと、案じていたところさ」
伊藤先生は家族四人暮らしだったのである。米を背負ってきた白川先生は、まさに福の神だった。それから数十年、白川先生は伊藤先生の家に下宿人暮らしをすることになる。
戦後苦難 進駐軍兵舎海星
この後海星には、県庁から「進駐軍命令により、海星は兵舎として接収されたからただちに明け渡すように」という指令が届けられた。「進駐軍命令」は占領下の軍政にあっては至上命令なのである。
海星は進駐軍兵舎となり、その際創立以来の資料、中にはフランスの先生達がフランスから持ってきた、ヨーロッパでは貴重な文献とされている古書類、数百冊が運動場で石油をふって焼かれた。
ー『海星八十五史』より・原文まま
アメリカが開発したドローン
25日(火曜)に、今年の3月完成した新中央館紹介撮影のため、校内にドローンが飛んだ。
諸説あるが、アメリカが20世紀中頃に軍事目的で実用的開発に成功したと言われているドローン。現在は、このような撮影のみならず、災害救助や測量など私たちの生活向上のために大きく貢献している。
時代の変遷。
もしこの撮影の光景を白川先生が見たら、どうおっしゃるだろう。どんな表情をされるだろう。
きっと屈託のない笑顔で撮影風景を眺めながら、タバコに火をつけてくれると思う。
まもなく戦後72年。
※写真は、ドローン撮影の様子と海星百年史から。