あけましておめでとうございます。
何となく 今年は良いこと あるごとし 元旦の朝 晴れて風なし -石川啄木
寅年が始まりました。節気は『小寒』、2月頭の立春前日までが寒の内で一年で最も寒い期間です。今朝の気温は3℃、昨日は首都東京が雪に見舞われたニュースが賑わいました。
お正月の余韻を楽しみたいところですが、まもなく新共通テスト、そして本校入試が控えます。春の七草を食べ、体調を整え、今年もさらなる飛躍の年にしましょう。
今年は、創立130年
本日は第三学期始業式です。そして今年は海星学園創立130年目、節目の年です。
1789年フランス大革命で混乱した社会、シャミナード神父はキリスト教的社会観にたった知識と道徳を青少年に授けることが肝要だと信じ、学校教育を主な事業とする『マリア会』を1817年設置しました。
その後フランスを越えスイス、ドイツ、アメリカ、スペイン、イタリア、カナダ、南米、韓国、オーストラリア、アフリカとマリア会は発展の翼を伸ばし、準備段階を経て1888(明治21)年の元旦・朝三時に船にてついに日本を訪れます。
(東京・旗本屋敷に集う姉妹校『暁星学園』の先生方。マリア会はまず東京に暁星学園を設立。次に長崎、海星学園を設立した。)
二日・朝七時に神戸港へ、そして三日・朝七時にその神戸港を出港して翌朝八時に横浜港にマリア会一行は到着しました。
そして東京で暁星学園を設立(初年度生徒12名)。翌年1890(明治23)年、長崎から叙階式のためクーゼン司教が上京します。司教は言います。
「今長崎には立派なプロテスタントの学校が3つもあります。カトリックはどうでしょう。私のささやかな神学院と、海岸通りにある『幼きイエズス修道会』があるだけです。」
長崎にカトリックの精神に基づく教えを、学校設立を-。
(東山手に宅地が造成されようとする頃の写真。海星はもちろんのこと、鎮西、東山の両学院、活水女学校もまだない。手前の松並木は南山手の丘)
永島正一氏提供(海星百年史)
1891(明治24)年、ジャック・バルツ師は長崎に向かって東京を出発した。当時鉄道はまだ早岐までしか来ていなかったので、おそらく師は航路にて長崎入りした。
当時の長崎人口は約六万余。
もちろんそれは、おくんちに踊りを出す地域だけの人口だったが、それでも九州第一の都会だった。興味深いのは当時の構成。大浦町の住民は835人中、日本人はたったの6人に過ぎず、他はすべて外国人だった。
現在は2倍以上の広さになっているオランダ坂。坂は発破でまず作られた。
その後様々な段階を経て、ついに1892(明治25)年1月11日、大浦天主堂にほど近い「浪の平」(行政区としては南山手町)の木造平屋にてささやかな開校式を行い、長崎の地に『海星』はついに産声を上げた。
「海星百年史より」抜粋
先人達の強い意志による学校設立。異国から、また日本到着後もその旅路でさえ順風満帆ではなく、場合によっては命の危険も伴いました。
その後転居を経て、海星学園は現在の東山手での学校活動を開始します。
130年目を迎えた今年、ホームページにてその歴史をご紹介できればと思います。今年もよろしくお願いいたします。
※写真は、「海星百年史」ほかより。
きずなプロジェクトVol2